山岳画家 千葉 潔
長野県松本市在住 北アルプスに魅せられた山岳画家
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取材風景
夏でも冬でも、こんな感じでスケッチしている。とは言っても、穏やかに晴れている日の方がいい。当たり前ではありますが。スケッチブックは、A4やB4の物を良く持ち歩いて、見開きA3・B3として取材(スケッチ)する事が多い。
千葉潔
〜私が絵を描くわけ〜
根源的に絵とは、人として生を得て初めての意思を持って行う行為。自身の痕跡を残す行為。そして更に痕跡を積み重ねたり広げたりしながら興味が増幅し発展していき、小さな文化の出発点。殴り描きの世界から線が交差しながら面が出来、形へと移行・発展・成長し絵(表現)となって行くのだと考えている。
すなわち、結論から言えば自己実現が絵を描く目的。そしてコンセプトはと言うと、テーマを山岳とし、引いて山を描く事よりも迫って山を描くのにシフトしたのが、山岳画ではないかと思う。
それで、迫って山を描く為に山懐に身をもっていき、作画するため登山するのが、山岳画家と考える。
現地/現場で油彩・水彩・パステル・鉛筆など、様々な画材を用いてその場の印象をスケッチとして残し、画室に持ち帰って制作するスタイルを取っている。勿論、現場で完結を迎えることもあるが、完成度を高めるには、時間や天候そして季節にも左右されるので最後まで制作を続けるのは難しい。それでも現場写生と言うものは、作画するために登山した証であるとともに作画するために必要なエッセンスがぎっしりと詰め込まれ、スケッチブックには私が絵を描くわけが如実に刻み込まれていると思う。
クロッキー(速写)やデッサン、少し色を指した淡彩などの作画資料であれ、描き込んで完成度が高められた作品であっても、その時山懐にいた者であれば誰もが感じる山その物の肌合いを共感する事ができると考えている。
山岳画家
北アルプスの裾野であり、登山では玄関口である信州松本に大阪より居を移して10年以上が過ぎ、この地で日々山の匂いを感じながら作品制作に励んでいる。
山を主題にした風景画を称して山岳画と言うらしい。山岳画と言っても色々あるだろう。ちょこっと考えてみるといくつかの見方があるかと思う。
大きく分けて二つ
引いて山を描く
迫って山を描く
山と山を取り巻く景色に魅力を感じ制作を試みる者としては、どっちも大事。
引いて山を描く:山紫水明、美しい山河のイメージを具体化する風景画。松本のへその辺りに住み着いて四方八方山に取り囲まれての生活で、それこそ我が家から一歩出ると四季折々山野が目前に広がり構図するに足りないところはない。
春は残雪戴くアルプスの峰々が、北は白馬、南は常念と乗鞍までずらりと見渡せる。東を見れば松本平(ここ信州では平野部を平と呼ぶ)を近景中景にして、美ヶ原を中心に山並みが広がる。南に目を転ずれば、南アルプス甲斐駒ヶ岳・北岳(本邦第二峰)・仙丈ケ岳や中央アルプスの山々が存在を訴えている。そして北には頸城の山々(越後の名峰妙高など)が見渡せる。
迫って山を描く:これは、あれこれ言う必要はない。迫って山の絵を描くためには登山しなければならない。一般的に考えて、山が見えていなければ描けない。それだったら、引いて山を描くのでも一緒ではないか。それはそうなのだが、里で描くのと、山の中で描くのでは一言でかたずけられないものがある。登山をしたことがある人なら経験があるだろう。風が強い!寒い!天気が急変!足場が悪い!…などなどで、里との違いはいくらでもある。従って、山の絵を迫って描くは、自慢する事ではないが、ちょっと大変。
登山の経験があればわかるだろう!そこでしか味わえない感覚があることを!苦労して登って、その褒美として自然が応えてくれるもの。絵描きはそれを描きたい。
山岳画とは
歴史をたどってみると、日本の画家では、足立源一郎(1889年・明治22年大阪出身)。西洋では、ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858年イタリア出身)が、アルプスの画家として知られている。
先にも書いたが、山岳画の定義が話題となることがある。しかし、これと言って明確に決まってはいないようだ。個人個人が自身の考えを語っているのだろうが、まずは「絵描きが登山する事」そして「現場で絵を描く事」これに尽きる。
山岳画によらず、よく写真のみを頼りに絵を描いている人が、プロアマ通して多いように思う。いや、その方が多いかもしれない。
かつて、エドガー・ドガも写真を参考にしていたと記憶しているが、ドガはデッサンの名手、モデルのスナップ写真をそのまま作品にしたのではないだろう。また、ドガが生きた時代は写真の黎明期、大いに写真を用いたかもしれないが、現代とは状況がはるかに違う。写真をそのまま作品に引き上げるスーパーレアリズムが流行したこともあったにはあった。オーソドックスに画面に向き合うのであれば、自身がその場にいて自身の目が見た感動を表現しなければ絵画そのものが成り立たないと考えている。
山岳画の醍醐味は、実際に大自然の空気を吸い・風に当たり・匂いを嗅ぎ・陽射しを受け・空間を感じ等々、全身に山を感じ表現する事を基本にしたいと考えている。そのためには、自身の身体を通過した自然から受けた様々な情報(感覚や感情などを含む)を現場でデッサンする。たとえ10分や20分程度のスケッチでさえも、描くという行為は自分にしかできない表現を画面に閉じ込める事ができる。
山岳画に限らず、絵画制作においてまずはデッサンする事。これは当たり前。画家が頼りにする物が写真しかないのでは情けない。
百歩譲って写真は数ある物の内にある情報の一つとして、参考までに用いる程度に収めるべきかと思う。
山を目の前にして、情報を求め留める手段として写真しか頼りになるものがないのでは、絵描きとして山に申し訳がたたない。自身の持てるものすべてを投じて制作に励むのが山岳画家であると思いたい。